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矢矧 (やはぎ)は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦〔#達昭和17年8月p.19『達第二百三十二號 佐世保海軍工廠ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和十七年八月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦 矢矧(ヤハギ)』〕。二等巡洋艦阿賀野型(阿賀野型軽巡洋艦)の3番艦〔#艦艇類別等級(昭和19年1月31日)p.1『軍艦|巡洋艦|二等|阿賀野型|阿賀野、能代、矢矧』〕 。艦名は長野県から岐阜県を経て愛知県に至る矢矧川にちなんで命名された(現在は矢作川と表記されている)〔#軽巡二十五隻20頁〕。帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。この名を持つ帝国海軍の艦船としては筑摩型防護巡洋艦2番艦矢矧に続いて2隻目〔。坊ノ岬沖海戦において、戦艦大和と運命をともにした〔#軽巡二十五隻317-318頁『▽大和隊の水上特攻』〕。 == 艦歴 == 1941年(昭和16年)10月22日、佐世保海軍工廠で阿賀野型軽巡1番艦阿賀野が進水する〔#S1710佐鎮日誌(1)p.16『阿賀野(百三十二)|起工一五.六.一八|進水一六.一〇.二二|竣工豫定一七.一〇.末』〕。11月11日、本艦(第134号艦)は阿賀野型軽巡3番艦として佐世保海軍工廠で起工〔〔#S1812佐鎮日誌(1)p.20『矢矧(百三十四)|十六.十一.十一|十七.九.二十五|十八.十二.末』〕。 1942年(昭和17年)8月20日、軍艦矢矧と命名され〔、阿賀野型2番艦能代と共に阿賀野型として登録される〔#内令昭和17年8月(3)pp.5-6『内令第一五五四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「阿賀野」ノ下ニ「、能代、矢矧」ヲ加フ 同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ|駆逐艦、一等初春型ノ項中「子日、」ヲ、同白露ノ項中「山風、」ヲ、同朝潮型ノ項中「、霰」ヲ削リ、同秋月型ノ項中「新月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ(以下略)』〕。 9月25日、高松宮宣仁親王(海軍大佐、昭和天皇実弟)臨席の元で矢矧は進水した〔#高松宮日記4巻627頁『九月二十五日(金)晴。「矢矧」進水式。長崎ニ赴キ上野屋泊。|〇四五七早岐着乗換、〇五一三発、〇五三四佐世保着。午前「矢矧」進水式〇八四〇。一七一九川棚発、一九二一長崎着。』〕〔#S1709佐鎮日誌(4)p.62『二十五(略)二.飛龍ヲ軍艦籍ヨリ除カル/三.矢矧ヲ第十戰隊ニ編入セラル(略)五.矢矧ノ本籍ヲ佐鎮ト定メラル(略)矢矧佐廠ニ於テ進水|一.矢矧命名式ノ爲宜仁親王殿下御成即日御離佐/二.佐鎮艦船部隊残務整理班経理部内ニ於テ事務開始』〕。佐世保鎮守府所属となる〔#内令昭和17年9月(3)p.18『内令第千七百八十九號|軍艦 矢矧 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|昭和十七年九月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』〕。機密保持のため、進水式で配られた記念酒盃には『矢矧』の艦名は記されておらず、かわりに矢に萩の花をあしらった絵が描かれていた〔梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』200頁〕。 10月31日、姉妹艦阿賀野が竣工〔#S1710佐鎮日誌(1)p.17『阿賀野十月三十一日竣工』〕〔#S1710佐鎮日誌(4)p.54『三十一(天候略)|一.羽黒、最上對空見張所光學兵器新設工事施行方受令/二.阿賀野佐廠ニ於テ竣工同艦艦長ニ引渡ス/三.第三十七號駆潜艇玉造船所、第三十九號駆潜艇播磨造船所ニ於テ竣工受領』〕。佐世保を離れ、トラック泊地に向かった。 11月21日、阿賀野型4番艦酒匂(第135号艦)が佐世保工廠で起工、建造が始まった〔#S1812佐鎮日誌(1)p.20『第百三十五號艦|十七.十一.二十一|進水|竣工豫定十九.十一.末』〕。 1943年(昭和18年)10月11日、日本海軍は駆逐艦磯波艦長・第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)司令・軽巡龍田艦長・第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲、朝雲)司令等を歴任した吉村真武大佐を、矢矧艤装員長に任命した。 10月16日、佐世保工廠に矢矧艤装員事務所を設置〔『○事務開始 第二百十二設営隊準備事務所ハ十月十八日呉海兵團内ニ於テ事務ヲ開始セリ|矢矧艤装員事務所ハ十月十六日佐世保海軍工廠内ニ於テ事務ヲ開始セリ|伊號第四十五潜水艦艤装員事務所ハ十月十九日佐世保海軍工廠内ニ於テ事務ヲ開始セリ』〕。 本艦は12月29日に竣工した〔#軽巡二十五隻338-339頁『矢矧(やはぎ)』〕〔#S1812佐鎮日誌(1)p.21『十二月二十八日 伊四十五潜、十二月二十九日 矢矧夫々竣工』〕。同日附で矢矧艤装員事務所を撤去〔『○事務所撤去 矢矧艤装員事務所ハ昭和十八年十二月二十九日之ヲ撤去セリ』〕。吉村矢矧艤装員長も制式に矢矧初代艦長となる。池田武邦少尉候補生も矢矧乗組を命じられた〔。 竣工と共に第十戦隊に編入される〔#S1812佐鎮日誌(4)p.52『二十九(天候略)二.矢矧ヲ第十戰隊ニ編入セラル|矢矧佐廠ニ於テ竣工』〕 〔#S1812十戦隊(1)p.51『二九(天候略)|〇七〇〇谷風「カビエン」ニ向ケトラツク発|矢矧10Sニ編入』〕。 1944年(昭和19年)1月10日、佐世保を出発して瀬戸内海へ向かう〔#S1812十戦隊(2)p.10『(麾下艦船部隊ノ行動)』〕 〔#S1812十戦隊(2)p.20『一〇 〇九三〇矢矧(宛略)内海西部ニ向ケ佐世保発』〕。 2月、リンガの哨戒および訓練のためシンガポールへ派遣された〔「軍艦「矢矧」艦歴等」p.4〕。 6日、第十戦隊(矢矧、第10駆逐隊《秋雲、風雲、朝雲》、第61駆逐隊《初月、若月》)は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)、重巡洋艦筑摩を護衛して内地を出発〔#S1812十戦隊(3)pp.4-5『(ロ)矢矧10dg61dg(初月若月)櫻部隊ニ編入1sfヲ護衛六日洲本発 矢矧61dg(初月若月)昭南ヲ経テ二十日「リンガ」着三十一日敷島部隊ニ合同爾後ノ行動前號通 10dg十三日昭南着二十日同地発瑞鶴護衛臼杵ヲ経テ二十七日呉着』〕〔#S1812十戦隊(3)pp.9-10『(四)麾下艦船部隊ノ行動』〕〔#S1812十戦隊(3)p.27『六(天候略)矢矧10dg初月若竟〇六三〇昭南ニ向ケ翔鶴瑞鶴筑摩ヲ護衛洲本発〇六一五朝雲昭南ニケ洲本発』〕。 13日、シンガポールに到着する〔〔#S1812十戦隊(3)p.28『一三(天候略)雪風〇七三〇呉発 一八二五10dg若月昭南着 一八四六矢矧昭南着』〕。ここで第10駆逐隊や一航戦と別れ、18日に2隻(筑摩、矢矧)はシンガポールを出発、同日着〔#S1812十戦隊(3)p.28『一八(天候略)一〇〇〇筑摩矢矧リンガ泊地ニ向ケ昭南発一九三〇着』〕〔。矢矧が航海中の2月17日、阿賀野型1番艦阿賀野が米潜水艦スケート (''USS Skate, SS-305'')の雷撃で撃沈された事に伴い〔#軽巡二十五隻336-337頁『阿賀野(あがの)』〕、第十戦隊司令官木村進海軍少将はリンガ泊地で秋月型駆逐艦1番艦秋月(敷島部隊編入中)から矢矧に移乗した〔#S1812十戦隊(3)p.4『(イ)當隊(秋月17dg)敷島部隊ニ編入2S 7S(筑摩欠)ヲ護衛一日「トラツク」発四日「パラオ」着十六日「パラオ」発二十一日「リンガ」着櫻部隊ト合同爾後「リンガ」方面ニアリテ南西方面作戰協力並ニ訓練ニ従事ス』〕。 2月23日、第十戦隊旗艦となった〔#S1812十戦隊(3)p.6『(ル)二十三日旗艦ヲ矢矧ニ変更ス』〕〔#S1812十戦隊(3)p.23『二三 一〇一五(司令官)10S(宛略)旗艦ヲ矢矧ニ変更セリ』〕〔井川『軍艦「矢矧」海戦記』73頁〕。 3月〔#S1812十戦隊(4)pp.14-15『(四)麾下艦船部隊ノ行動』〕、4月〔#S1812十戦隊(5)pp.12-13『(三)麾下艦船部隊ノ行動』〕は、第十戦隊各艦および空母部隊と共にシンガポールとリンガ泊地を拠点に訓練と整備に従事〔#S1812十戦隊(5)p.3『(イ)矢矧 五日第一類作業六日曳的艦九日曳的艦及第二類作業十三日第四回航戰教練十四日第五回航空戰教練及第一類作業ノ爲「リンガ」湾内ニ出動ス 十四日「ベルハラ」水道敵潜出現ノ報ニ依リ直ニ現場ニ急行友軍ト協力翌十五日夕刻迄之ガ掃蕩攻撃ニ任ズ 二十一日第三警戒錨地ニ回航二十三日昭南ニ回航月末迄機関ノ修理ニ從事ス』〕。 5月12日、矢矧以下第十戦隊(旗艦《矢矧》、第10駆逐隊《朝雲、風雲》、第61駆逐隊《初月、若月、秋月》、第17駆逐隊《磯風》)は第一航空戦隊(空母大鳳、翔鶴、瑞鶴)、第五戦隊(重巡洋艦妙高、羽黒)とともにシンガポールからタウィタウィ泊地へ向け出発した〔#S1812十戦隊(6)pp.3-4『(イ)矢矧 昭南ニ於テ機関修理中ノ所一日完成即日「リンガ」皈投将旗ヲ復皈ス 十日迄同方面ニ於テ訓練警戒待機ニ従事十一日「リンガ」発「ペンゲラツプ」ニ転錨十二日「タウイタウイ」ニ向ケ出撃・機動部隊本隊ノ警戒ニ任ジツヽ十五日「タウイタウイ」着…』〕〔#S1812十戦隊(6)p.12『一二(天候略)〇四三〇矢矧61dg10dg磯風「タウイタウイ」ニ向ケ「ペンゲラップ」発(1sf直衛)』〕。 航海中、2隻(矢矧、風雲)は敵潜水艦撃沈を報告した〔#S1812十戦隊(6)pp.5-6『(ハ)第十駆逐隊(風雲朝雲)十日迄「リンガ」方面ニアリテ訓練警戒待機ニ從事十一日「リンガ」発「ペンゲラップ」ニ転錨十二日「タウイタウイ」ニ向ケ出撃十五日同地着此ノ間KdB本隊ノ警戒ニ任ジ風雲ハ十二日及十三日矢矧瑞鶴飛行機及矢矧翔鶴飛行機ト協同敵潜各一隻ヲ撃沈セリ(以下略)』〕。 15日到着以後、タウィタウィ泊地で訓練と搭載水上偵察機による潜水艦哨戒任務に従事した〔#S1812十戦隊(6)pp.3-4『(イ)矢矧…十八日1sf発着艦警戒ニ從事ス尚「タウイタウイ」進出途上十二日及十三日風雲瑞鶴飛行機及風雲翔鶴飛行機ト協同敵潜各一隻ヲ撃沈セリ』〕。 1944年(昭和19年)6月19日、第十戦隊(第17駆逐隊《磯風、浦風》、第10駆逐隊《朝雲》、秋月型4隻《初月、若月、秋月、霜月》)〔「昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌」p.5〕を率いて小沢治三郎中将指揮の第一機動艦隊に所属し、マリアナ沖海戦に参加した。午前8時10分、第一機動部隊旗艦大鳳(矢矧より距離3kmを航行)に米潜水艦アルバコア(''USS Albacore, SS-218'') の発射した魚雷1本が命中した〔#撃沈戦記II96頁〕〔#猛き艨艟206頁〕。矢矧は大鳳から『ワレ航行ニ差シ支エナシ』の信号を受取っている〔井川『軍艦「矢矧」海戦記』95頁〕。さらに午前11時20分、矢矧の目前で翔鶴が米潜水艦カヴァラ(''USS Cavalla, SS-244'')から雷撃され魚雷4本が命中した〔#佐藤 艦長続編(文庫)464頁〕。翔鶴は午後2時前後に沈没し、随伴艦(矢矧、浦風、若月)等は翔鶴の乗組員の救助に従事するも乗組員および航空隊員合計約1100名以上が戦死した〔#撃沈戦記97頁〕。14時32分、大鳳が大爆発を起こした〔#猛き艨艟209頁〕。これは魚雷命中の衝撃でガソリンが洩れ、数時間後に引火した為である。大鳳は16時28分に沈没していった〔#猛き艨艟210頁〕。第十戦隊各艦(磯風、初月)は共同で脱出乗組員の救助にあたった〔井川『軍艦「矢矧」海戦記』96頁〕。 6月20日17時50分、第一機動部隊(旗艦《瑞鶴》、第五戦隊《羽黒、妙高》、第十戦隊《矢矧、磯風、浦風、初月、秋月、若月、朝雲》、秋月型《霜月》)、は米機動部隊から発進した戦闘機85、艦上爆撃機77、艦上攻撃機54と交戦。矢矧は主砲15(18)発、高角砲130発、機銃5,200発を発射した〔「軍艦矢矧艦歴等」p.5、井川『軍艦「矢矧」海戦記』104頁〕。この戦闘で矢矧に損害はなく、瑞鶴も被弾したが小破に留まった。 6月24日、矢矧は日本の呉に戻った〔井川『軍艦「矢矧」海戦記』117頁〕。ドックでレーダーや機銃の増強を行った後、7月8日に多くの戦艦、巡洋艦、駆逐艦と共に呉を出航し、東南アジア方面へ向かった。マニラを経由し、20日リンガ泊地に到着した〔井川『軍艦「矢矧」海戦記』118頁〕。その後はアメリカ軍との戦闘に備えて訓練に従事した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「矢矧 (軽巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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